かつみんの好きなものブログ

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島津日新公いろは歌について 読みやすいPDF付き


 私は朝起きてから毎日この『島津日新公いろは歌』の48句を音読するようにしている。48句しかないので、1回10~15分あれば読むことができ、それなりにお手軽である。

この『島津日新公いろは歌』とは何かというと、戦国武将の島津日新が民衆に郷中教育として施したものである。その精神は『論語』に代表される「儒学」、「禅学」、「武士道」から成る。極めて道徳的な内容で、戦国時代が終わり江戸時代に入ってからも薩摩潘の教育として広く潘内に伝わったとされている。詳しくは一番下のホームページを参考にしてほしい。

私がこの毎朝の音読の生活を始めてから今現在かれこれ半年くらいが経ち、頭文字を見れば文がすらすらと出てくるようになってきた。そうなってくるとだいたい意味も掴めてくるようになる。

そしてそれらの言葉を正しく心身に浸透させていくことができれば、そのうち自然と無意識のうちに行いまでが善くなっていくなるはずである。そして時間をかけて善行を積み上げ、ある程度まで達してくれば、瞬時の判断でも迷わず、迷いの中でも大きく間違えず、他者との調和を図ることができ、自ずと人生は良い方向へ進んでいくようになるはずだろうと思う。

結果として人生を良い方向に導くには、小さく善行を積み重ね、無意識のなかまでまごころを作り出し、自然と善い行いができるようにしていき、大きく穏やかに舵をとって、全体的な視点で良い方向に進めるようにするのが最適だと私は思っている。

これは私がもうひとつ大切にしていることである「大局観を持って目の前のことを地道に行うこと」にも通じることである。

 

 良い人生は小さな善行の積み重ねでしかつくり出すことはできない。逆を言えば、自分勝手に私利私欲に生きれば、その自分の慢心さが自分を殺すことになる。

 

 孔子先生の『論語』には「十五にして学を志す。三十にして立つ。四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従うて、矩を越えず。」とあるように、本来人は年を取れば取るほど頑固になるのではなく、人の意見を素直に聞き入れられるようになり、そしてわがままをしても羽目を外さなくなるはずなのである。

頑固親父だとか、亭主関白などというのは、ただの自己研磨の怠慢であり慢心であると私は思っている。そのような人は老いていきながらわがままな様子から友人や家族が次第に離れていき、孤独になっていく状況でありながらわがままの歯止めが効かずさらに暴走していき、ますます孤立無縁が深まっていき、そしてとうとうそのまま最期を迎える人生となっていく。実際にそういう人を身近に見ているので、よくそう思うのである。まさに自分の慢心さが自分を殺しているのである。

そうならないためにも、孔子先生の『論語』で言うところの七十の領域に達するためには、善行の積み重ね克己の修錬しかないと思う。そしてこれはまた自分自身のこれからの人生の課題であり、自戒である。

 

 さて、この『島津日新公いろは歌』は、明治維新の立役者である西郷隆盛(吉之介)も少年期にこの教育を施されている。そして西郷はこれを人生の指針とした。

 2018年の大河ドラマ西郷どん』のなかでも、西郷吉之介が沖永良部島島流しにされた際、島の子どもたちに『島津日新公いろは歌』を教えているシーンがある。


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 西郷はこの『島津日新公いろは歌』の教えのとおりをただただ遵守し、遂行し、そのために明治維新という大事を成し遂げた。

 単純な話だが、この『島津日新公いろは歌』には、明治維新を成し遂げる原動力となったという、それだけ優れた効用が実績として残っているという裏付けがしっかりある。偉人である西郷の基礎を作り上げた教訓なのだから、これを指針として生きるのは大きく間違っていない、というのが私の信条である。

 

 

 今回自分が毎日音読できるように作成したファイルをここに貼っておこうと思う。訳については以下のホームページを引用した。少し誤りがあったのでPDF版には手直しを加えている。

 読みやすいように1枚につき3~5句程度にし、印刷しても12ページに収め、スマホの画面でも読みにくいことはないと思う。明朝とメイリオ体の2つを作成したので、好きなほうを使っていただければと思う。

 これを読んで、人生の転ばぬ杖としていただければ幸いである。

 私もまたこれを人生の転ばぬ杖としていきたいものである。

drive.google.com

 

 ↓引用元

www.shimazu-yoshihiro.com

 

↓参考資料

www.ecowoodseurope.com

 

 

自叙伝2

遺訓その2

 

 

  楽も苦も 時過ぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし

  (出典:島津日新公いろは歌)

 

  

 2018年8月27日、一緒に住んでいた父の弟のおじさんは突然亡くなった。53歳だった。あまりにも衝撃的だった。雷雨が激しく降る中、家に帰るとおばあちゃんの目が弱弱しく動揺している。目線の先を見ると、夏なのに出しっぱなしになっていたストーブに頭を打ちつけ白目をむいて倒れているおじさんがいた。おばあちゃんに救急車は呼んだかと聞くと、既に呼んでいるとのことだったので、脈を測って…、わかんなかったがダメだな、と直感に思ったので、昨年自動車教習所で習った心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し、救急車を待った。おじさんは体重100kg近くあっただろうか、肥満体形のいわゆるデブなおっさんだ。正直やりたくない気持ちもあったが人工呼吸を続けた。途中で肺からおっさんとたばこと食物の臭い空気が帰ってきた。吐き気がした。それでも続けた。

 救急車が来ると救急隊に引き継いで、病院に連行した。医師からもう何をしても意識が戻らないと言われ、感情論を捨て、私の学んだ生物科学的な知見から、専門家が言うならそれに従うしかないと思い、それなら「もうやめるように」と告げ、心臓マッサージをやめ、確実に死亡となった。当時24の私の判断で死亡となった。

 

 

 それから、自宅での死亡ということで事件性がないか警察が来て検体をし、事件性がないことが確認された。

 その後は、遺体の安置、葬儀社への連絡、会社への報告、役所への報告、親族への報告などをした。遺体というこれから腐敗していく物質的なものから、役場の事務的なこと、人間的なやり取りなど、多岐にわたって忙しかった。葬儀社は段取りが良く、淡々と仕事をこなしてくれて、遺族としては負担がかなり少なく済んだ。それなりによくできているものである。

 あれやこれやで、火葬、納骨まであっという間に終わってしまった。

 

( 人は死ぬと、多岐にわたりあらゆる仕事をしなくてはならないという知見を得たり。これはライフハックなり。覚えておくように。

 故に死ぬことは遺った者によるの後処理が否応にも発生する。できるだけ少なく済むよう準備は大切である。とりあえず今は情報の整理ができると思い、これもその我が身の後処理の最適化作業の一つである。)

 

 

 

 おじさんの人生を考えてみようと思う。

(ここから主語がややこしくなるので、登場人物を簡単に並べておく)

・私                     克。この家族の長男である。現在25歳(2019.04.18)。

・おじさん       私の父の弟である。

・父                     私の父であり、おじさんの兄である

・母                     私の母である。父と結婚し、私が三兄弟の長男として生まれた。

・おばあちゃん 私のおばあちゃんであり、父と父の弟にあたるおじさんの母である

・おじいちゃん  私のおじいちゃんであり、父と父の弟にあたるおじさんの父である

・お姉さん          私のおばあちゃんの友人であり、昔は浅草で芸者をしていた。

 

 

 おじさんは写真を見る限り20代から太っていたようだ。私も中肉中背なので、この体質は我一族の血筋外ならず、一生向き合わねばならない課題なわけだが、とりわけおじさんはその中でも肥満体質であった。そしておじさんの母、私のばあちゃんから離れることがなく、実家で生涯暮らした。これもあってか、女性と関係のある人生だったかというと、あまりなかったように思える。私の母から聞くと、母が誰か紹介しようか、と尋ねると、いつも「今の自分ではまだ早い」と答えていたそうだ。なんだか、今の自分と同じような考え方である。

 

 また、なかなか実家を離れずに暮らしていることや、肥満体質なことや、勉強のできもさほど良くなかったこともあり、あまり親戚内での評判が良くなかったようだった。「アイツはダメだ」と親戚内から言われることもあったようだ。将来もあまり期待されておらず、孤立無援だった。

 また、実兄である父とも不仲であった。兄である父は良好な大学に進み、良好な企業に勤め、結婚もし、私が生まれた。目に見える形で結果の出す兄と比べ、結果の残せない弟として自分のことを卑劣に思っていたかもしれない。それがゆえに、不仲の溝は深まっていくばかりであったようだ。そして、次第におじさんは父や親戚に心を閉ざし、心を開いていた人は直近ではおじさんの父であるおじいちゃんと母のおばあちゃんと、後に出てくる「お姉さん」という方だけだったように思われる。少なくとも私の確認できる範囲の人脈ではその程度と、あとは会社の社員や大学の旅行仲間だっただろうか。

 

 また片付けものが苦手だった。それもあってだらしがなかった。見た目や生活習慣の悪さ、勉強のできなさ、それらが重なって彼の評判は悪かった、いや、真に人間性を評価することは難しかった、というほうが正確だろうか。

 

 しかし、それでも大学を卒業後、製薬会社に勤め、嫌々ながらも勉強をする時はして、薬剤師の免許を取得していたようである。孤立無援で将来を期待されずに育ってきたが、それとは反対にそれなりに器用にこなせる能力を持ち合わせていたのだと思う。

 

 

 

 私が生まれて一番最初のおじさんとの記憶は、5才くらいの時に実家の3階の和室で遊んだことである。車がサーキットのレールの上で高速で走るおもちゃを見せてくれたり、ダイナソーという恐竜の話をしてくれたりした。割と新しいモノを見せてくれるようで、おじさんのすることはいつも新鮮だった。最も、これもおじさんによる餌付けではないかと、おじさんの兄である父はあまりよく思っていなかったようである。

 そんな渦中の私は私で意味不明な子どもだったので、ダイナソーダイソーを同じ意味だと思っていて、これは100円ショップの話だと思っていた。今思うと、100円ショップの話では絶対なかったと思う。大人は子どもに100円ショップの話をするわけがないからである。しかし、私は恐竜より100円ショップのほうが好きだったのだろう。たくさんものが安く置いてあって夢があるからである。全く、私はなんとも現実的でひねまがった子どもである。

 

 

 それから数年が経ち、おばあちゃんの友人である「お姉さん」と呼んでいた方が亡くなった。「お姉さん」とは浅草の元芸者で、大宮に越してからは時折うちに顔を出してくれ、私も子どもの時大変お世話になった。「お姉さん」というのは芸者時代の美しい姿の名残で、私が子どもの時であってもすでに60を越えたおばあさんであった。しかし、なんとも妙な気品さがあり、強制されて「お姉さん」と呼ばされているわけでもなく、自然と「お姉さん」と呼んでしまうような方で、「お姉さん」という概念はその方そのものになっていた。イメージするならば、銀魂お登勢さんみたいな見た目で、それよりも少し物腰の柔らかく優しい感じである。

 

 「お姉さん」には父も父の弟にあたるおじさんも子どもの時から面倒を見てもらっていたようだ。お姉さんは私の父とその弟のおじさんの面倒を自分の子どものように見ていた。私の父が小学か幼稚園の頃、東武動物公園に遠足に行くことがあったそう。その時に親も同伴するということで、私のおばあちゃん、つまり父の母が同伴するつもりであった。しかし、お姉さんが私が行く、行きたい、ということで、さすがに親である私に行かせてくれと、少しおばあちゃんと揉めたそうだ。それでもおばあちゃんがお姉さんに行かせるのを拒み、自分の足で遠足に私の父を連れていった。東武動物公園に着くと、そこにはお姉さんと父の弟のおじさんがいたそうだ。さすがに遠足についてこられては困ると思い、私の父であるおじさんの兄は、「来ないでくれ」と突き放したそうだ。さすがにそれはお姉さんもやりすぎだと思ったのか、お姉さんはおじさんを連れてどこか遊びに行った、とのことだ。

 

 お姉さんの訃報が入り、私は初めて葬式に参加した。12年ほど前、中学1年生か2年生だったかと思う。忙しさを極めていたのか、学ラン姿を見せないまま亡くなってしまったのが、今でも悔やまれる。その、葬式にて火葬される前の最後の挨拶の時だった。おじさんが大声で「お姉さん、ありがとう」と言ったのである。おじさんは親戚、父にも心を開かずに生きてきていたので、心を開いて「ありがとう」と言った姿に、全員が驚いた。そして、そこにいた誰しもが、その時のことを印象的に覚えている。

 

 私の父はその時からおじさんの印象が変わったと言っている。

 

 そしてそれから、父は転勤で仙台に行くこととなり、私は中3で受験を控えており、仙台に行くかおじいちゃんちに住むかの選択を迫られていた。父の転勤は3年で終わるということなので、ならば埼玉の高校に進むと決め、私はおじいちゃんちに住むことになった。そして、棲み処は今に至る。

 

 おじいちゃんちでは、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、私の4人で暮らした。その暮らしが始まってから約10年後、私は大学3年になり、おじさんは51歳だった頃だ。、85歳になったおじいちゃんが転び、大腿骨を骨折し入院した。それから、おじいちゃんの競輪などによる借金がばれた。その時、父と父の弟のおじさんはこれまでの不仲を感じさせないくらい驚くほど意気投合して、共闘しておじいちゃんの借金の闇を隅から隅まで突き晴らした。それ以来、おじさんと父はよくコミュニケーションをとるようになり、不仲どころか、親密であった。

 

 それから、おじさんはどうやら仕事が忙しくなっていったようだ。営業のストレス、社車のドライブレコーダーの設置、退職金の減少など、労苦が重なった。それと同時に、食事も脂っこいものが増え、食事でストレスを解消するようになった。特にマックが好きで、いつもハンバーガーを食していた。体重も増加していったと思う。

 また、年齢を重ねるごとに孤独になっていき、人生の目標も見えなかったように思える。老けていくおばあちゃんとおじいちゃんの世話を自分がするのではないか、という不安もあったと思う。あらゆる不安がおじさんを苦しめた。

 部屋の荷物も片づけられず、増えていった。不安は加速するばかりだった。

 

 また、家の老朽化も頭を悩ませていた。居間は2階で1階はテナントを貸している。下には水が漏れては、営業の邪魔なり、時折クレームが入っていた。

 

・じいさんの借金

・じいさんばあさんの老化

・仕事のストレス

・食生活の悪化

・荷物の増加

・家の老朽化

 

 小さいストレスの泡が、おじさんの心を苦しめていった。

 

 

 そして、その日は起こってしまった。遺品の手帳から「あつい」というメモが残っていた。去年は暑かった。そうだね、しんどかったね。

 

 

 それから遺された者たちは、おじさんの大量の遺品の整理に追われることになった。焼却所に何度も捨てに行った。500kg近く荷物があると思う。今現在もまだ200kg荷物が残っていると思う。

 

 整理の際、おじさんの部屋から、おじさんが多大な将来の不安から多大に「貯金」をしており、部屋から硬貨が何百枚と出てくる。おじさんが将来自分の老後を思って貯めていたお金だ。死んでしまったのでおじさん自身が使うことはなかった。

 

 また、おじさんは多大な不安から生命保険をかけており、遺された者に振り込まれることになった。

 

 

  楽も苦も 時過ぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし

 

 

 おじさんは、まさにこの句のような人生を歩み、全うした。

 心の底から尊敬したいと思う。

 遺された者は一所懸命に生きねばと思う。

 

 

 

 

 まぁ、本当に私が書きたたかったのは、先人として生きたおじさんと私の比較である。私はおじさんとは父の弟ということで少し遠くとも血の繋がりがある。よく考えて見ると似ている部分も意外と多いのではないだろうか。そして、おじさんの人生を考えることで、自分の人生を鑑みることはできるのではないだろうか。

だが、今回はこれ以上分析する思考の余裕と気力がもうない。

 

それと、あまり推敲せず、不眠不休で書いてしまったので粗削りで読みにくかったと思う。殴り書きで本当はもっと情緒よく書きたかったが、私の気力と文才のなさから、とりあえず発信しデジタル化させておくだけでもまだ救いがあると思い、書き留めておく。あまり読み手のことを考えていないのは申し訳ない。

続きはまた今度にしようと思う。

 

2.終

自叙伝

遺訓その1

前置き

 

 

「遺訓」とあるが、遺訓は死ぬ寸前に書くだけのものではなく、また80年の人生も大宇宙からみたらわずかな時間であるから、今日思い立って書き残しておけるのならそれに越したことはないわけで、これから短くて長い人生をかけて少しずつ遺訓として自叙伝を書いていこうと思う。

遺訓なんて中二臭いとか、なんだとか思う人もいると思うけど、もうそういうのをいちいち汲み取って摩耗するのも疲れたので、もうわかんない人にはわかんなくていいと思う。伝わる人に伝わってくれ。そして伝わってわかってくれる人と、わかんないけど応援してくれる人を、僕は全力で愛そうと思う。

 

 

人の記憶は意外と脆いもので、自分のせいぜい鮮明に残っている昔の記憶は2年前ほどだと思う。今私は25歳だが、今更5年前の大学初期の授業の記憶などほとんど残っていない。今の生活に必要ないデータは消されていく仕組みは善悪あれど、これは良くできていると思う。

 

人、ないし生命は、遺伝子というATGCでできた遺伝情報からたんぱく質が合成されて分子となり細胞となり人となる、生命はアナログのように見えて実は分子というデジタルでできている物質だ。人の脳内の思考も細胞からなるためデジタルデータであるのだが、手というインターフェイスを通して筆を手にし紙に起こす、またはコンピュータという量子空間にて文字を打ち込むことでデジタル化させない限りアウトプットすることが難しいことから、これはアナログ性が高いものである。

 

まぁ正直この程度のことは生物基礎であり、誰でもわかることなので説明する必要もないのだが、世の中は自分が「思っている以上に」、丁寧に説明しないと理解してくれないらしい。

 

 

文化人類学者の和辻哲郎先生の本を読んでいると、凡人にも一般的にわかるように至極丁寧に書かれており、わかりやすく、また時折天才的なひらめきがちりばめられていて素晴らしい。和辻先生は、まさしく筆を取れば名文が出てくる天才学者であったと思わせる。

和辻先生は、「日本」という国を東洋、シルクロードの世界観から俯瞰し、的確に日本人の性質を捉える、まさに天才中の天才の文化人類学者だ。本を読めば読むほど、一体どこに視点があり、どんな思考力を持って、世界を観ようとしていたのだろうか、凡人には全く手が届かない人だということを思わせる。

そんな天才学者が平易な文章で誰でもわかるように文章を書いている。ここからは憶測も甚だしく、私の勝手なる都合な解釈だが、和辻先生は天才同士にしかわからない文章は避け、天才的な視点を凡人の思考レベルに下げられるだけ下げ、「凡人でもこのくらいならわかってくれるだろう」と思いながら書いたのではないだろうか。

しかしどうあれ、和辻先生の文章はどうあれ名文なのだから、先生は世阿弥的な「客視」を心得た、まさに天才中の天才だ。直近百年の日本人の中でも十本の指に入る天才であったと思う。

 

 

本題

 

 

私は最近(2019.04.17)、自分には当然見えている未来を人に話しても理解してもらえず、自分には見えている本質を突いても突いても、誰にも理解してくれない孤独感を覚えている。

そもそも自分の学歴はごく普通の大学で誰でも入れる大学であり、しかもそこに2年も浪人をして苦心をして入学している。また大学の成績も良かったとは言えず、卒論のできも良いものとは言えなかった。就職も就職活動や会社労働の「空気感」が苦手で、半ば逃げるように徳之島に就職することになった。結果その選択に無理があり帰郷し現在は経営診断の資格取得のための勉強をしている。今までの実績はなく、評価もない。業界生産性はゼロだ。一般的な「天才」というイメージには全く当てはまらない。自分としても「天才」という感覚はない。

しかし、毎日共感性の高い発想だと思って投げたものに全く評価がつかない。毎日毎日誰からも認められない。誰よりも本質を突いている。未来を見ている。世界の闇をわかりやすく文章化して明らかにしている。読めば自分たちが生きやすい世界になっていくというのに、目を通してくれない。目に見える効果がない。反響がない。反応がない。

自分には見えてないものがあるのか。自分は無能なのか。自分とはなんなのか…。

 

 

 

 

過去にさかのぼること、3か4才くらいのことだ。鮮やかな記憶ではないが、ひとつだけ確信をもって覚えていることがある。自分は「失語症」だったらしく、全く話すことのない子どもだったらしい。それを心配した親は一般的な幼稚園では扱いが難しいということで、少し変わった「あかね」という名前の保育所のような、養育施設のような、施設に預けられることになった。そこは木造の古民家で、空間は小さく、アットホームな環境で、良かったように思える。私はそこで少しずつ会話を覚えて、1年後に年中から大宮幼稚園に通うことになった。

 

しかし、私は「失語症」だったわけではない。これは誰にも話していないので、親もびっくりだと思う。しかし、これははっきりいえる。私は「失語症」ではない。「話す必要性を感じなかったから話さなかっただけで、話そうと思えば話せた」のである。

まぁ、私は長男であるから、子どもを育てるのが初めてな親が、そんな高度な情報を子どもから読み取ることもできないのも無理ないと思う。私には私の世界観があり、その世界では一人の人間として生きていたのだ。

 

 

会話を覚え、話すことの楽しさを覚えた私は、”見た感じ”一般的な子どもになった。安心したのか、年中から一般的な幼稚園に通うことになった。しかし、私は「話せるようになったから話すようになった」のではなく、「もともと話せたけど、話さないより話すほうが楽しいかもしれない」と思ったから話すようになったのだ。自分の本質、軸は変わってない。

 

 

幼稚園の時も、実は私は変人さを発揮していた。歌を「ラララ」で歌うという概念が理解できなかった。なので「リリリ」で作詞作曲し、オリジナルの曲を歌って走り回っていた。ちなみにその曲は今でも歌えるので、忘れないうちに打ち込もうと思う。しかもたぶんキーは「F#」か「B」だと思う。黒鍵で作ったのかな。

 

 

また、キリスト教の幼稚園だったので、クリスマスにはキリストにまつわるお遊戯がある。そこで幼児たちは各々つきたい役につく。男の子はカッコいい役、女の子はかわいい役につくのが普通の幼稚園児だ。

しかし、私は「天使役」を選んだ。当時は「天装戦隊ゴセイジャー」というカッコいい天使という概念など当然まだないので、天使=かわいい→女の子がやるのが当然だった。私にとって天使役とは、かわいいというより、憧れというか、なにかちがう輝きがあるように思えていた。やりたくてしかたなかった。

そして、過去何年間も男の子が天使役をやらなかったにも関わらず、私は天使役に立候補した。私は練習に励み、最後まで天使役を全うし、クリスマスのお遊戯会を終えた。

今思えば幼稚園の教諭たちはジェンダー論のない時代にこの立候補をよく認め最後までやらせてくれたと思う。そして、天使役をやり切った私はとにかく楽しかったという記憶がある。

そして今でも、もし同じ遊戯をしろと言われたら「天使役」に立候補すると思う。

 

 

そう、思えば、子どものころから、「軸のズレている」人間だったのだ。しかしその軸のズレは、人とのふれあいや、いじめや、社会からの抑圧によって、普通の人として生きることを強制されていく。

そしていつの間にか、自分でも気がつかないくらいにその「人とズレているという才能」を埋もれさせて、普通の人になろうとしてしまうのであった。結果として、普通の人になりきったつもりになっていただけだったが。

 

 

 

 

もう、あらゆる点で、残念なのである。

しかし、これらはすべて最善を尽くした結果で仕方ないことなのだ。誰しもが必死に生きた結果であるし、私の両親は最愛の限りを尽くしてくれていたと思う。環境は良かった。

それでもこの「ズレた軸の持つ子ども」を誰も掬い上げることはできなかった。

 

全くどうしようもなかったことなのだ。

 

 

とりあえず殴り書きだが、備忘録もかねて、一度書き留めて、また続きを書こうと思う。

 

  1. 終わり。

ゴールなき人生を楽しもう!『広く弱くつながって生きる』佐々木俊尚著 書評

 

こんにちは。かつみんです。

今回は佐々木俊尚著の『広く弱くつながって生きる』の書評をしていきます。

 

広く弱くつながって生きる[佐々木俊尚]

 

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著者の佐々木さんは元新聞記者で、当時は昭和的な「強いつながり」が大事とされる狭い社会でした。しかし、以後フリーに転身し、東日本大震災を経験して以降人とのつながり方を「浅く、広く、弱く」に変え、結果組織の強くてめんどくさいつながりから解放され、「きっと誰かが少しだけでも助けてくれる」という気楽な考え方に変わることができたとのこと。精神的に疲弊しやすい社会でどのように摩耗せず生きて楽しむかが書かれている本です。

 

この本は元新聞記者、フリーライターの著書ということもあって、文章の書き方、構成がまとまっておりとてもわかりやすいです。書いてある内容は深いのですが、読み手を非常に意識していて、かつ佐々木さんの朗らかな人間性がよく出ていて、読んでいて軽快で爽やかな気持ちになれます。元新聞記者ということで、難解で堅苦しく、読み手に挑戦させるような文章なのでは、と思われがちですが、全くそんなことなく、内容の深さとわかりやすさが両立している文章となっております。

なかなか内容とわかりやすさの両立は書き手にとって難しい課題でありますが、長年のライターの実力もあってそこを楽々超えているという印象です。書く力って大事だなって思いました。

 

また佐々木さんのTwitterも読んでいて心地よいものが多いです。Twitterって自己主張が多くて見るのが嫌になりがちですが、佐々木さんからはゆるくふわりとした芯のあるツイートが多いように見られます。

twitter.com

 

 

 

本の内容に入ります。

新聞記者時代、「強いつながり」の組織での仕事は、それこそ狭くて濃いつながりのため、「ここでしか言えない話」を手に入れることができ、それが仕事に繋がったとのことです。しかし、それは非常に「麻薬的」で、憑りつかれるように仕事には取り組めますが、精神的疲弊も強く、長くは続かないと思ったそうです。

また、組織は「打ち合わせがやたら多い」「儀式が好き」という無駄があり、それは「ヒエラルキーによる固定化された構造がある」と指摘しています。形式偏重は時にして効果を発揮しますが、経営コンサルティングの観点からしても、その状態は一時のみ効果があり、ある程度したらそのステージから抜け出し、新しい組織変革をしなければ停滞しがちです。昔ながらの構造は「楽」ではありますが、それは「思考停止」であり、常に変化していかなくてはなりません。変化するためには柔軟で緩やかである必要があります。その点でもこの「広く弱くつながって生きる」という方法は有効だと思います。

 

また、個人として精神摩耗から逃げる以外に、マクロ的に見ても「年功序列」や「終身雇用」がなくなり、インターネットによるつながりができるようになりました。このことからも、「強く狭いつながり」から「広く弱くつながって生きる」という時代そのものに移行しているのではないでしょうか。

 

 

そして、僕が思うこの本の最大の知見は「まれびと」という考え方にあると思います。「まれびと」とは「たまに何かをしに来て、役割を果たして去っていく。時々様子を見てまた去っていく人」のことです。「まれ」は「珍しい」という意味もありますね。

いろんなコミュニティや地域でこの「まれびと」になって、「どこにいても必要とされよう」また受け入れる側は「たまに来る人を大切にしよう」と説いています。

 

そもそも日本の神様は「何もないところにやってきて、何かいいことをして去っていく」という存在で、あいまいでゆるふわっとしています。実は日本人には深層的にそんな思想が生活の中に根付いていて、「まれびと」になるのは自然にできてしまうものだと思いました。

 

この「まれびと思想」は自分の強みを無理なく生かせて、行かなくてはならないという圧力もなく、たくさんの人に支えてもらって生きていける思想で、実に気楽で良い思想だと思います。

 

僕は「まれびと思想」を念頭に置いて生きていこうと思いました。「まれびとブロガー」としてゆるふわっと良いことをして去っていくような感じでブログやっていきます。

 

 

 

最後に、人生は「ゴールなきもの」とのこと。頂上を一気に登る「ピークハント」的な登山ではなく、周りの景色や歩くことを楽しむ「ロングトレイル」であると。何かを成し遂げることは刺激的で快感かもしれない、けどそれでは消耗してしまうから、ゆっくり歩いて人生を楽しむ心が大切であると説いています。

 

少し生きることに疲れてしまった方は、ちょっとこの本で自分の生き方を見直してみませんか?「まれびと」な世界に一歩踏み込んでみるのはいかかでしょうか。

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混浴に行った話

こんにちは。かつみんです!

今回はこの前混浴に行った話をします。

 

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実は2ヶ月ほど前に混浴に行ってきました。この2ヶ月間、絶対に人を笑わせることのできる話(スベらない話的な)としてずっとこの話を持っていたのですが、当の本人(自分)がぼやぼやしてたり忘れていたりしたせいで誰にも話さず2ヶ月が過ぎてしまいました。特に誰にも明かしたくなかったわけではありません。むしろ話したいネタだったのですが、ぼんやりしすぎて話しそびれてしまい、これからも話す機会を逃してしまいそうな気がするので、ここにしっかりと記していきたいと思います。

 

「今から面白い話します」「この前混浴に行ってきました」

この2文だけで絶対に人の興味を自分に持ってくることができます。まさに神フレーズですね。混浴のコンテンツ力凄い。間違いなく「その話を聞かせてくれ」という気にさせることができますね。

他にも「櫻井翔」という言葉を冒頭に持ってくると、それだけで人の目線が自分に集まってくることが自分の経験上判明しています。とりあえず「櫻井翔がね」と言っておくだけで、人の興味を集めることができるので、ぜひ実践してみると良いと思います。その後どう文章を作るかはあなたの腕次第です。とりあえず冒頭に「櫻井翔」と言っておくと良いでしょう。「櫻井翔」もまた「混浴に行ってきました」レベルの力を持つ神フレーズですね。

 

自分は転職活動をしているので数社面接を受けていました。「自己PRしてください」とか「前職を教えてください」というごく一般的な質問に対しての受け答えはもちろん考えていましたが、「あなたの面白い話を聞かせてください」なんて聞かれる場合だってあるかもしれないと、ずっと用意していました。残念ながら「あなたの面白い話を聞かせてください」という質問は来ませんでした。そもそも、相手が女性(異性)の面接官の時、「この前混浴に行ってきました」という話はあんまり印象が良くないかもしれません。男性の面接官の場合だったら絶対にウケると思います。とても「混浴に行った」話をしたかったです。本当に残念です。

 

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(たぶんこのおっさんにだったら混浴の話はめちゃくちゃウケると思う)  

 

 

さて、一体いつどこの混浴に行ってきたのか、という本題に入ります。

それは9月中旬のことでした。徳之島から埼玉に帰る際、鹿児島に寄った時のことです。徳之島からフェリーに乗り鹿児島港に朝着き、夕方の鹿児島空港からの便で羽田に戻る予定でした。鹿児島では朝から夕方までの時間を潰さなくてはならないことと、鹿児島港のある鹿児島市から、鹿児島空港のある霧島市へ移動しなくてはなりませんでした。時間に余裕を持たせたのはフェリーには遅れる可能性があり、遅れると数時間単位になるからです。しかし、フェリーは無事定刻通り着いたので、時間を潰して移動をしなくてはならなくなりました。

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(桜島)

 

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(鹿児島⇔奄美⇔沖縄を結ぶフェリー)

 

katmin5z.hatenablog.com

(徳之島についてはこちらを参照してみてください)

 

鹿児島市から鹿児島空港までは高速バスが45分1250円で乗れるのですが、荷物が重すぎてバスの時間まで歩いて遊んで時間を潰すのは難しいと考え、半日6000円のレンタカーを借りて、鹿児島から霧島あたりまでドライブして時間を潰しつつ移動しようと考えました。

このあたりの機転の良さ、旅慣れている感じ、Geniusですね。

 

 

 

鹿児島でレンタカーを借り、霧島へ向かう途中、コンビニにより温泉マップを読みました。案外こういうのはスマホよりも本のほうが整理されていて見やすくわかりやすいものです。「とりあえずなんか良さげなところを探そう、霧島温泉は有名だしなにかあるだろう」と思い、パラパラとめくっていきました。すると数ある温泉の中から「混浴」の文字のある温泉を見つけました。

「今の時代に混浴なんてあるのか、誤植か」と思い、他の温泉を見ると、そこには「男女別温泉」とか「男女別露天風呂」などとはっきり書かれていました。何度見ても確かに書いてある「混浴」の文字。確かに存在するのだと認識しました。

 

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しかし、私は悩みました。「ひとりで行っていいものか」「竿が抑えられなかったらどうしようか」と。しかし、今回の旅は「一人旅」。そう、自由なのです。誰かに咎められることもない、知り合いに馬鹿にされることもない、なにも恥じることはないのです。「もし2人以上同行者がいたら行っただろうか、いや、混浴に2人以上行って恥はかきたくない、ならば一人で行ける今は絶好の機会なのでは。」そう決意し、いざ混浴のある温泉へ車を走らせたのです。

 

 

 

混浴のある温泉の名前は「霧島ホテル」。なんと300年もの歴史のあるホテル・温泉とのことです。大浴場はサマーランドかと思うくらい大きさで、まるで温泉のテーマパークのようです。山奥に佇む秘湯で岩陰に隠れながら…というありきたりなイメージという感じではなさそうですね。

www.kirishima-hotel.jp

霧島ホテルの駐車場に車を止め、いざ混浴へ。

すると受付の方が女性ですね。「いや、ひとりだと怪しまれないか」「下心がみえみえなのでは」などと考えました。しかし「私は温泉のテーマパークを見に来たのであって決して女性を見に来たわけではない…」と考えることで心を静め、勇気を振り絞って受付に向かいました。

身分を証明するような書物を少し書かされ、特に前科等はないので、問題なく受付をすますことができました。日ごろの行いが善くて良かった。

 

そこから階段を上り、長い廊下を行き、坂本龍馬の展示物を過ぎると、男女別の更衣室が現れました。そこで衣類を脱ぎ、いざ、大欲情、いや、大浴場へ…。。

 

 

 

するとそこに広がっている世界は…

 

 

 

 

 

 

 

男!

 

 

男!

 

 

男!!!

 

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ここは男湯なのか、そう言わんばりの男しかいない世界。

 

しかも、何かを期待しながらも失望する顔面の男ばかり。

残念そうな男の顔がたくさん溢れる場所でした。

 

そんな、淡い期待を抱いたがそこには希望はなかったという男性の顔を見れる、というのが混浴(男)の魅力なのかもしれません。

そういった意味では面白い人間観察をすることができました。

竿が収まらなかったらどうしよう、なんて心配をする必要は全くありませんでした。

 

 

しかし、内装は非常によく、まさにテーマパークのような空間が広がっており、泳ぐことができるんじゃないかという広さの大浴場となっております。

また、女性には19時から21時はレディースタイムとなっており、その時間は混浴エリアは女性のみの使用に限られるので、安心してご利用することができます。

男性のみがそのテーマパークを楽しめる、というわけではございませんのでご安心してください。

温泉自体非常に良かったので、混浴目的ではなくとも行ってみてはいかがでしょうか。

 

 

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(高千穂牧場から) 

 

 

というわけで、今回のお話はここまでにします。

男性の方々は混浴に淡い期待をせず、類は友を呼ぶと思って行きましょう。

 

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埼玉に戻って改めてわかった徳之島の良いところ

こんにちは。かつみんです!

今回は一時期住んでいた徳之島のお話をしていきます。

 

私は大学卒業と同時に鹿児島県の奄美群島にある徳之島に移住し農家のもとに就農し生活をしていました。家庭の事情でたったの半年で埼玉に戻ることになってしまったのですが、その間で感じたことを改めて書いていこうと思います。

 

 

徳之島から埼玉に戻って一番良かったと思うところは、「遠くの景色が見える」ことです。「遠くの景色が見える」なんて、平凡で大したことないんじゃないかと思われるかもしれませんが、自分にとってはこの「遠くの景色が見える」ことが埼玉に戻って徳之島で暮らしていて一番贅沢なことだったと思います。

 

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(畦プリンスビーチから井ノ川岳を撮った写真)

 

埼玉の高層マンションや東京のビル街に囲まれている生活を送っていると、目先が遮られて遠くの山や遠くの空が見えず、徳之島から戻った自分からすると「空が狭い」といつも思います。週1~3回程度は東京に足を運んでいるので、渋谷や六本木を歩くことはしばしばあります。特に六本木のビル街はどこが地面なのだかわからないくらいの浮遊感に包まれるくらい圧倒的な人工物に囲まれている場所でした。まるで人類が地上を支配したような、そんな高揚感を錯覚させられます。

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(この前行った六本木のビル。City、科学技術の進化、洗練された美を感じる。)

 

高層ビルの高いところにエレベーターで昇れば遠くの景色が見えるのでは、と思われるかもしれませんが、高層ビルと徳之島の「遠くの景色が見える」の意味は全く違います。

 

自分が徳之島で住んでいた集落からは井ノ川岳が見えます。井ノ川岳は、晴れている日、雨の日、風が強い日、雨のち晴れの日、雲が早く流れる日…、毎日表情を変えてくれます。そういった小さな毎日の変化はこころに喜びを与えてくれ、いつも違った新鮮な刺激のある日々を過ごさせてくれます。一番感動した日はスコールのあとの晴れた日でした。空中の埃が雨ですべて落ちたあとに晴れ間が差し、井ノ川岳の遠くの木々の葉が恐ろしく鮮明に見える日がありました。山まで5キロくらい離れているのですが、その木々の葉の青々しさが濃く見え、葉の数が数えられるくらい鮮明でした。非常に神秘的な景色は、毎日自然の変化を観察して過ごしている島の人たちにしかわからない貴重な光景でした。

 

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(井ノ川岳。644m。いつも見ていたところから) 

 

 

また徳之島は山だけでなく、海もサンゴ礁に囲まれていて綺麗な場所です。少し山を登ったところから見る遠くの地平線を見ること、晴れた日の加計呂麻島まで見えること、今思えば非常に贅沢なことでした。島の近くに島があると、その島がどのくらい見えるのか、微かに島が見えるのか、あるいは崖の模様まで見えるのか、あるいはまったく見えないのかを観察し、今日は遠くまで見える日なのかどうかを測ることができます。

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(美らサンゴ礁たちの写真)

※美らはきゅらと読みます。

 

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(遠くに見える加計呂麻島奄美大島に近接している。この日はうっすら見えるだけだった)

 

 

また、島は四方が海に囲まれているので、朝日も夕日も見ることができます。徳之島は中央に山があるので、東側の地域は朝日が、西側の地域は夕日が見ることができ、私は東側に住んでいたので、夕日が見たい時は西側まで移動して沈むのを見に行きました。内陸だと地平線から昇る朝日と地平線に沈む夕日を見るには長い距離移動が必要になってきますが、島だと車を10分15分くらいの移動で東側と西側を行き来することができます。

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 (畦プリンスビーチからの朝日。畦は好きだったな…)

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(母間から見た朝日。遠くにぼんやりと明るい玉が上がってきて、じんわりと暖まるようでした。)

 

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(サンセットリゾートで撮った夕日。) 

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(こちらもサンセットで撮った夕日。上の写真とは別日。)

 

 

都会のビル街は人間が住みやすいように環境を変え、自然による弊害や脅威のない場所に発展していきました。人間は環境を変えられる唯一の生物で、それによって地球で生き残ってきた生物ですので、そうした都会の進化は人間の叡智の結晶ともいえるかもしれません。しかし自然には毎日小さな変化があり、こころに新鮮な刺激と喜びを受け取ることができます。そういった小さな毎日の変化は都会にはない自然あふれる徳之島の特権でした。

徳之島から埼玉に戻って良かった点ももちろんありますが、こういった自然の恩恵はなかなか得にくくなってしまいました。埼玉に戻ってきてからはできるだけ何かと自然を目にし、移ろう季節と自然と天気を観察するようにしています。小さな自然の変化に気づくように心がけることで、新鮮な刺激によるこころの豊かさを得られるようにしようとしています。そんな「こころの精神」を徳之島の自然は養ってくれました。これからも自然をよく観察することは心の指針にして生きていきたいと思います。

 

 

 

 

今日はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。

 

 

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大学3年の時に作った徳之島を紹介する動画です。

動画、音楽ともに自作しました。

 

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プロ野球の応援の是非

こんにちは。かつみんです!

今日もよろしくお願いいたします。

 

自分はプロ野球の応援はなくしていくべきだと思っています。野球はボールが放たれる一瞬にものすごい集中力を必要とするスポーツです。集中力を必要とするときに周りがうるさいのは集中力を高めるのにふさわしい環境とは言えません。中には選手の名前を必要以上に連呼するもの、選手の名前を叫ぶもの、選手のプレーを煽り立てるもの、相手チームを倒せと罵倒するものもあります。正直言ってそれは応援ではなく、ただフラストレーションの吐き場のようです。過度な応援は集中力を乱す要因になっているはずです。

また応援反対派の中には、心理的な駆け引きや選手一人一人の守備位置など、野球を静かに戦略的に観たいと思っている人もいるでしょう。

 

アメリカのメジャーリーグでは日本の野球のような応援はなく、観客は静かに観戦し、試合展開が熱くなるとそれに応じて観客のボルテージも上がっていくという形になっています。日本のプロ野球は1975年頃に広島東洋カープが応援を取り入れて以来、日本のプロ野球のみがガラパゴス的に進化し今に至っています。最近では女性パートが導入されるなどの発展も見られます。野球の応援は日本独自の文化です。プロ野球は「スポーツのエンタメ化」にいち早く成功し、もともとあった人気をさらに高めることができました。ファンと応援があって発展してきたプロ野球から応援をなくしてしまうと観客の数は減ってしまうのは明らかです。応援はやめるにやめられない状況になっています。

 

「スポーツのエンタメ化」というのはスポーツにおいて非常に重要な概念で、特にマイナースポーツではファンを取り込むためにどうすればエンタメ化できて観客数を増やすことができるかを考えださなくてはなりません。サッカーや自転車、駅伝はエンタメ化しやすいスポーツだったため、周りの応援やスポンサーもつきやすく人気のスポーツになることができました。野球ももともとあった人気と応援をくっつけることでエンタメ化してファンを獲得して肥大成長を遂げることができました。野球にとってエンタメ化し人気を獲得するために応援は必要な要素であったといえます。

 

また、最近の球団の運営方針も時代の変化と共に変わってきています。従来の発信メディアが限られた時代では、球団そのものがブランドで球団が魅力を発信しファンの心を掴んできました。しかし最近は「球団とファンが一緒になってチームを作っていく」という方針に変わってきました。

 

これからのプロ野球は、球団とファンとが一体化してチーム作りをしていく中で、選手の意見も取り入れていき、応援する形を模索し、より選手が集中して野球に取り組める環境を、三位一体で作っていく時代になっていくと思います。チームの勝利のためにうるさい応援をやめるという選択肢が出てくるはずだからです。球団、選手、ファンの三者が応援について改めて考えて、全員が得をする形に落とし込んでいくことが、日本のプロ野球のさらなる発展に繋がっていくと思います。

 

今回はここまで。

最後までお読みいただきありがとうございます。