かつみんの好きなものブログ

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自叙伝2

遺訓その2

 

 

  楽も苦も 時過ぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし

  (出典:島津日新公いろは歌)

 

  

 2018年8月27日、一緒に住んでいた父の弟のおじさんは突然亡くなった。53歳だった。あまりにも衝撃的だった。雷雨が激しく降る中、家に帰るとおばあちゃんの目が弱弱しく動揺している。目線の先を見ると、夏なのに出しっぱなしになっていたストーブに頭を打ちつけ白目をむいて倒れているおじさんがいた。おばあちゃんに救急車は呼んだかと聞くと、既に呼んでいるとのことだったので、脈を測って…、わかんなかったがダメだな、と直感に思ったので、昨年自動車教習所で習った心臓マッサージと人工呼吸を繰り返し、救急車を待った。おじさんは体重100kg近くあっただろうか、肥満体形のいわゆるデブなおっさんだ。正直やりたくない気持ちもあったが人工呼吸を続けた。途中で肺からおっさんとたばこと食物の臭い空気が帰ってきた。吐き気がした。それでも続けた。

 救急車が来ると救急隊に引き継いで、病院に連行した。医師からもう何をしても意識が戻らないと言われ、感情論を捨て、私の学んだ生物科学的な知見から、専門家が言うならそれに従うしかないと思い、それなら「もうやめるように」と告げ、心臓マッサージをやめ、確実に死亡となった。当時24の私の判断で死亡となった。

 

 

 それから、自宅での死亡ということで事件性がないか警察が来て検体をし、事件性がないことが確認された。

 その後は、遺体の安置、葬儀社への連絡、会社への報告、役所への報告、親族への報告などをした。遺体というこれから腐敗していく物質的なものから、役場の事務的なこと、人間的なやり取りなど、多岐にわたって忙しかった。葬儀社は段取りが良く、淡々と仕事をこなしてくれて、遺族としては負担がかなり少なく済んだ。それなりによくできているものである。

 あれやこれやで、火葬、納骨まであっという間に終わってしまった。

 

( 人は死ぬと、多岐にわたりあらゆる仕事をしなくてはならないという知見を得たり。これはライフハックなり。覚えておくように。

 故に死ぬことは遺った者によるの後処理が否応にも発生する。できるだけ少なく済むよう準備は大切である。とりあえず今は情報の整理ができると思い、これもその我が身の後処理の最適化作業の一つである。)

 

 

 

 おじさんの人生を考えてみようと思う。

(ここから主語がややこしくなるので、登場人物を簡単に並べておく)

・私                     克。この家族の長男である。現在25歳(2019.04.18)。

・おじさん       私の父の弟である。

・父                     私の父であり、おじさんの兄である

・母                     私の母である。父と結婚し、私が三兄弟の長男として生まれた。

・おばあちゃん 私のおばあちゃんであり、父と父の弟にあたるおじさんの母である

・おじいちゃん  私のおじいちゃんであり、父と父の弟にあたるおじさんの父である

・お姉さん          私のおばあちゃんの友人であり、昔は浅草で芸者をしていた。

 

 

 おじさんは写真を見る限り20代から太っていたようだ。私も中肉中背なので、この体質は我一族の血筋外ならず、一生向き合わねばならない課題なわけだが、とりわけおじさんはその中でも肥満体質であった。そしておじさんの母、私のばあちゃんから離れることがなく、実家で生涯暮らした。これもあってか、女性と関係のある人生だったかというと、あまりなかったように思える。私の母から聞くと、母が誰か紹介しようか、と尋ねると、いつも「今の自分ではまだ早い」と答えていたそうだ。なんだか、今の自分と同じような考え方である。

 

 また、なかなか実家を離れずに暮らしていることや、肥満体質なことや、勉強のできもさほど良くなかったこともあり、あまり親戚内での評判が良くなかったようだった。「アイツはダメだ」と親戚内から言われることもあったようだ。将来もあまり期待されておらず、孤立無援だった。

 また、実兄である父とも不仲であった。兄である父は良好な大学に進み、良好な企業に勤め、結婚もし、私が生まれた。目に見える形で結果の出す兄と比べ、結果の残せない弟として自分のことを卑劣に思っていたかもしれない。それがゆえに、不仲の溝は深まっていくばかりであったようだ。そして、次第におじさんは父や親戚に心を閉ざし、心を開いていた人は直近ではおじさんの父であるおじいちゃんと母のおばあちゃんと、後に出てくる「お姉さん」という方だけだったように思われる。少なくとも私の確認できる範囲の人脈ではその程度と、あとは会社の社員や大学の旅行仲間だっただろうか。

 

 また片付けものが苦手だった。それもあってだらしがなかった。見た目や生活習慣の悪さ、勉強のできなさ、それらが重なって彼の評判は悪かった、いや、真に人間性を評価することは難しかった、というほうが正確だろうか。

 

 しかし、それでも大学を卒業後、製薬会社に勤め、嫌々ながらも勉強をする時はして、薬剤師の免許を取得していたようである。孤立無援で将来を期待されずに育ってきたが、それとは反対にそれなりに器用にこなせる能力を持ち合わせていたのだと思う。

 

 

 

 私が生まれて一番最初のおじさんとの記憶は、5才くらいの時に実家の3階の和室で遊んだことである。車がサーキットのレールの上で高速で走るおもちゃを見せてくれたり、ダイナソーという恐竜の話をしてくれたりした。割と新しいモノを見せてくれるようで、おじさんのすることはいつも新鮮だった。最も、これもおじさんによる餌付けではないかと、おじさんの兄である父はあまりよく思っていなかったようである。

 そんな渦中の私は私で意味不明な子どもだったので、ダイナソーダイソーを同じ意味だと思っていて、これは100円ショップの話だと思っていた。今思うと、100円ショップの話では絶対なかったと思う。大人は子どもに100円ショップの話をするわけがないからである。しかし、私は恐竜より100円ショップのほうが好きだったのだろう。たくさんものが安く置いてあって夢があるからである。全く、私はなんとも現実的でひねまがった子どもである。

 

 

 それから数年が経ち、おばあちゃんの友人である「お姉さん」と呼んでいた方が亡くなった。「お姉さん」とは浅草の元芸者で、大宮に越してからは時折うちに顔を出してくれ、私も子どもの時大変お世話になった。「お姉さん」というのは芸者時代の美しい姿の名残で、私が子どもの時であってもすでに60を越えたおばあさんであった。しかし、なんとも妙な気品さがあり、強制されて「お姉さん」と呼ばされているわけでもなく、自然と「お姉さん」と呼んでしまうような方で、「お姉さん」という概念はその方そのものになっていた。イメージするならば、銀魂お登勢さんみたいな見た目で、それよりも少し物腰の柔らかく優しい感じである。

 

 「お姉さん」には父も父の弟にあたるおじさんも子どもの時から面倒を見てもらっていたようだ。お姉さんは私の父とその弟のおじさんの面倒を自分の子どものように見ていた。私の父が小学か幼稚園の頃、東武動物公園に遠足に行くことがあったそう。その時に親も同伴するということで、私のおばあちゃん、つまり父の母が同伴するつもりであった。しかし、お姉さんが私が行く、行きたい、ということで、さすがに親である私に行かせてくれと、少しおばあちゃんと揉めたそうだ。それでもおばあちゃんがお姉さんに行かせるのを拒み、自分の足で遠足に私の父を連れていった。東武動物公園に着くと、そこにはお姉さんと父の弟のおじさんがいたそうだ。さすがに遠足についてこられては困ると思い、私の父であるおじさんの兄は、「来ないでくれ」と突き放したそうだ。さすがにそれはお姉さんもやりすぎだと思ったのか、お姉さんはおじさんを連れてどこか遊びに行った、とのことだ。

 

 お姉さんの訃報が入り、私は初めて葬式に参加した。12年ほど前、中学1年生か2年生だったかと思う。忙しさを極めていたのか、学ラン姿を見せないまま亡くなってしまったのが、今でも悔やまれる。その、葬式にて火葬される前の最後の挨拶の時だった。おじさんが大声で「お姉さん、ありがとう」と言ったのである。おじさんは親戚、父にも心を開かずに生きてきていたので、心を開いて「ありがとう」と言った姿に、全員が驚いた。そして、そこにいた誰しもが、その時のことを印象的に覚えている。

 

 私の父はその時からおじさんの印象が変わったと言っている。

 

 そしてそれから、父は転勤で仙台に行くこととなり、私は中3で受験を控えており、仙台に行くかおじいちゃんちに住むかの選択を迫られていた。父の転勤は3年で終わるということなので、ならば埼玉の高校に進むと決め、私はおじいちゃんちに住むことになった。そして、棲み処は今に至る。

 

 おじいちゃんちでは、おじいちゃん、おばあちゃん、おじさん、私の4人で暮らした。その暮らしが始まってから約10年後、私は大学3年になり、おじさんは51歳だった頃だ。、85歳になったおじいちゃんが転び、大腿骨を骨折し入院した。それから、おじいちゃんの競輪などによる借金がばれた。その時、父と父の弟のおじさんはこれまでの不仲を感じさせないくらい驚くほど意気投合して、共闘しておじいちゃんの借金の闇を隅から隅まで突き晴らした。それ以来、おじさんと父はよくコミュニケーションをとるようになり、不仲どころか、親密であった。

 

 それから、おじさんはどうやら仕事が忙しくなっていったようだ。営業のストレス、社車のドライブレコーダーの設置、退職金の減少など、労苦が重なった。それと同時に、食事も脂っこいものが増え、食事でストレスを解消するようになった。特にマックが好きで、いつもハンバーガーを食していた。体重も増加していったと思う。

 また、年齢を重ねるごとに孤独になっていき、人生の目標も見えなかったように思える。老けていくおばあちゃんとおじいちゃんの世話を自分がするのではないか、という不安もあったと思う。あらゆる不安がおじさんを苦しめた。

 部屋の荷物も片づけられず、増えていった。不安は加速するばかりだった。

 

 また、家の老朽化も頭を悩ませていた。居間は2階で1階はテナントを貸している。下には水が漏れては、営業の邪魔なり、時折クレームが入っていた。

 

・じいさんの借金

・じいさんばあさんの老化

・仕事のストレス

・食生活の悪化

・荷物の増加

・家の老朽化

 

 小さいストレスの泡が、おじさんの心を苦しめていった。

 

 

 そして、その日は起こってしまった。遺品の手帳から「あつい」というメモが残っていた。去年は暑かった。そうだね、しんどかったね。

 

 

 それから遺された者たちは、おじさんの大量の遺品の整理に追われることになった。焼却所に何度も捨てに行った。500kg近く荷物があると思う。今現在もまだ200kg荷物が残っていると思う。

 

 整理の際、おじさんの部屋から、おじさんが多大な将来の不安から多大に「貯金」をしており、部屋から硬貨が何百枚と出てくる。おじさんが将来自分の老後を思って貯めていたお金だ。死んでしまったのでおじさん自身が使うことはなかった。

 

 また、おじさんは多大な不安から生命保険をかけており、遺された者に振り込まれることになった。

 

 

  楽も苦も 時過ぎぬれば 跡もなし 世に残る名を ただ思ふべし

 

 

 おじさんは、まさにこの句のような人生を歩み、全うした。

 心の底から尊敬したいと思う。

 遺された者は一所懸命に生きねばと思う。

 

 

 

 

 まぁ、本当に私が書きたたかったのは、先人として生きたおじさんと私の比較である。私はおじさんとは父の弟ということで少し遠くとも血の繋がりがある。よく考えて見ると似ている部分も意外と多いのではないだろうか。そして、おじさんの人生を考えることで、自分の人生を鑑みることはできるのではないだろうか。

だが、今回はこれ以上分析する思考の余裕と気力がもうない。

 

それと、あまり推敲せず、不眠不休で書いてしまったので粗削りで読みにくかったと思う。殴り書きで本当はもっと情緒よく書きたかったが、私の気力と文才のなさから、とりあえず発信しデジタル化させておくだけでもまだ救いがあると思い、書き留めておく。あまり読み手のことを考えていないのは申し訳ない。

続きはまた今度にしようと思う。

 

2.終