かつみんの好きなものブログ

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自叙伝

遺訓その1

前置き

 

 

「遺訓」とあるが、遺訓は死ぬ寸前に書くだけのものではなく、また80年の人生も大宇宙からみたらわずかな時間であるから、今日思い立って書き残しておけるのならそれに越したことはないわけで、これから短くて長い人生をかけて少しずつ遺訓として自叙伝を書いていこうと思う。

遺訓なんて中二臭いとか、なんだとか思う人もいると思うけど、もうそういうのをいちいち汲み取って摩耗するのも疲れたので、もうわかんない人にはわかんなくていいと思う。伝わる人に伝わってくれ。そして伝わってわかってくれる人と、わかんないけど応援してくれる人を、僕は全力で愛そうと思う。

 

 

人の記憶は意外と脆いもので、自分のせいぜい鮮明に残っている昔の記憶は2年前ほどだと思う。今私は25歳だが、今更5年前の大学初期の授業の記憶などほとんど残っていない。今の生活に必要ないデータは消されていく仕組みは善悪あれど、これは良くできていると思う。

 

人、ないし生命は、遺伝子というATGCでできた遺伝情報からたんぱく質が合成されて分子となり細胞となり人となる、生命はアナログのように見えて実は分子というデジタルでできている物質だ。人の脳内の思考も細胞からなるためデジタルデータであるのだが、手というインターフェイスを通して筆を手にし紙に起こす、またはコンピュータという量子空間にて文字を打ち込むことでデジタル化させない限りアウトプットすることが難しいことから、これはアナログ性が高いものである。

 

まぁ正直この程度のことは生物基礎であり、誰でもわかることなので説明する必要もないのだが、世の中は自分が「思っている以上に」、丁寧に説明しないと理解してくれないらしい。

 

 

文化人類学者の和辻哲郎先生の本を読んでいると、凡人にも一般的にわかるように至極丁寧に書かれており、わかりやすく、また時折天才的なひらめきがちりばめられていて素晴らしい。和辻先生は、まさしく筆を取れば名文が出てくる天才学者であったと思わせる。

和辻先生は、「日本」という国を東洋、シルクロードの世界観から俯瞰し、的確に日本人の性質を捉える、まさに天才中の天才の文化人類学者だ。本を読めば読むほど、一体どこに視点があり、どんな思考力を持って、世界を観ようとしていたのだろうか、凡人には全く手が届かない人だということを思わせる。

そんな天才学者が平易な文章で誰でもわかるように文章を書いている。ここからは憶測も甚だしく、私の勝手なる都合な解釈だが、和辻先生は天才同士にしかわからない文章は避け、天才的な視点を凡人の思考レベルに下げられるだけ下げ、「凡人でもこのくらいならわかってくれるだろう」と思いながら書いたのではないだろうか。

しかしどうあれ、和辻先生の文章はどうあれ名文なのだから、先生は世阿弥的な「客視」を心得た、まさに天才中の天才だ。直近百年の日本人の中でも十本の指に入る天才であったと思う。

 

 

本題

 

 

私は最近(2019.04.17)、自分には当然見えている未来を人に話しても理解してもらえず、自分には見えている本質を突いても突いても、誰にも理解してくれない孤独感を覚えている。

そもそも自分の学歴はごく普通の大学で誰でも入れる大学であり、しかもそこに2年も浪人をして苦心をして入学している。また大学の成績も良かったとは言えず、卒論のできも良いものとは言えなかった。就職も就職活動や会社労働の「空気感」が苦手で、半ば逃げるように徳之島に就職することになった。結果その選択に無理があり帰郷し現在は経営診断の資格取得のための勉強をしている。今までの実績はなく、評価もない。業界生産性はゼロだ。一般的な「天才」というイメージには全く当てはまらない。自分としても「天才」という感覚はない。

しかし、毎日共感性の高い発想だと思って投げたものに全く評価がつかない。毎日毎日誰からも認められない。誰よりも本質を突いている。未来を見ている。世界の闇をわかりやすく文章化して明らかにしている。読めば自分たちが生きやすい世界になっていくというのに、目を通してくれない。目に見える効果がない。反響がない。反応がない。

自分には見えてないものがあるのか。自分は無能なのか。自分とはなんなのか…。

 

 

 

 

過去にさかのぼること、3か4才くらいのことだ。鮮やかな記憶ではないが、ひとつだけ確信をもって覚えていることがある。自分は「失語症」だったらしく、全く話すことのない子どもだったらしい。それを心配した親は一般的な幼稚園では扱いが難しいということで、少し変わった「あかね」という名前の保育所のような、養育施設のような、施設に預けられることになった。そこは木造の古民家で、空間は小さく、アットホームな環境で、良かったように思える。私はそこで少しずつ会話を覚えて、1年後に年中から大宮幼稚園に通うことになった。

 

しかし、私は「失語症」だったわけではない。これは誰にも話していないので、親もびっくりだと思う。しかし、これははっきりいえる。私は「失語症」ではない。「話す必要性を感じなかったから話さなかっただけで、話そうと思えば話せた」のである。

まぁ、私は長男であるから、子どもを育てるのが初めてな親が、そんな高度な情報を子どもから読み取ることもできないのも無理ないと思う。私には私の世界観があり、その世界では一人の人間として生きていたのだ。

 

 

会話を覚え、話すことの楽しさを覚えた私は、”見た感じ”一般的な子どもになった。安心したのか、年中から一般的な幼稚園に通うことになった。しかし、私は「話せるようになったから話すようになった」のではなく、「もともと話せたけど、話さないより話すほうが楽しいかもしれない」と思ったから話すようになったのだ。自分の本質、軸は変わってない。

 

 

幼稚園の時も、実は私は変人さを発揮していた。歌を「ラララ」で歌うという概念が理解できなかった。なので「リリリ」で作詞作曲し、オリジナルの曲を歌って走り回っていた。ちなみにその曲は今でも歌えるので、忘れないうちに打ち込もうと思う。しかもたぶんキーは「F#」か「B」だと思う。黒鍵で作ったのかな。

 

 

また、キリスト教の幼稚園だったので、クリスマスにはキリストにまつわるお遊戯がある。そこで幼児たちは各々つきたい役につく。男の子はカッコいい役、女の子はかわいい役につくのが普通の幼稚園児だ。

しかし、私は「天使役」を選んだ。当時は「天装戦隊ゴセイジャー」というカッコいい天使という概念など当然まだないので、天使=かわいい→女の子がやるのが当然だった。私にとって天使役とは、かわいいというより、憧れというか、なにかちがう輝きがあるように思えていた。やりたくてしかたなかった。

そして、過去何年間も男の子が天使役をやらなかったにも関わらず、私は天使役に立候補した。私は練習に励み、最後まで天使役を全うし、クリスマスのお遊戯会を終えた。

今思えば幼稚園の教諭たちはジェンダー論のない時代にこの立候補をよく認め最後までやらせてくれたと思う。そして、天使役をやり切った私はとにかく楽しかったという記憶がある。

そして今でも、もし同じ遊戯をしろと言われたら「天使役」に立候補すると思う。

 

 

そう、思えば、子どものころから、「軸のズレている」人間だったのだ。しかしその軸のズレは、人とのふれあいや、いじめや、社会からの抑圧によって、普通の人として生きることを強制されていく。

そしていつの間にか、自分でも気がつかないくらいにその「人とズレているという才能」を埋もれさせて、普通の人になろうとしてしまうのであった。結果として、普通の人になりきったつもりになっていただけだったが。

 

 

 

 

もう、あらゆる点で、残念なのである。

しかし、これらはすべて最善を尽くした結果で仕方ないことなのだ。誰しもが必死に生きた結果であるし、私の両親は最愛の限りを尽くしてくれていたと思う。環境は良かった。

それでもこの「ズレた軸の持つ子ども」を誰も掬い上げることはできなかった。

 

全くどうしようもなかったことなのだ。

 

 

とりあえず殴り書きだが、備忘録もかねて、一度書き留めて、また続きを書こうと思う。

 

  1. 終わり。